明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が紀尾井坂付近で石川士族に襲われ暗殺され
ました。
大久保利通は西郷隆盛、木戸孝允とともに維新三傑と呼ばれています。西郷さんは、
明治10年の西南の役にて既に死に、木戸さんも西南戦争中に病没していました。
不平士族の乱は西南戦争が最後の最大の反乱とされています。残った不平士族は、
明治新政府の代表である大久保利通を国の運営とそれによる利益を独占している特権
階級のリーダーであり、最大の奸物として捉えていました。
大久保利通は、明治維新を完成させるには30年の年月が必要だと考えていました。
最初の10年は国の基盤づくりに注力する時期、次の10年が内政を整え、国内の民間産業
を育成する時期、最後の10年を後継者への引継ぎ時期として捉えていました。
いわば、最初の10年が創業期、次の10年が社内体制の構築、人材育成と事業の成長期、最
後の10年が事業の継承および第二の創業期と捉えることができます。
大久保利通のこのような長期ビジョンに基づく施策を理解できていなかった人たちがその
専横を非難していたと言えます。
真の大久保利通を理解していなかったということは、大久保利通を襲撃した不平士族がその
理由の一つにあげていた彼の政治の専横と私腹を肥やしているということが事実でなかったこ
とからも分かります。
むしろ、大久保利通は公共事業などにも私財を投じており、死後に判明したことは彼が残した
のは財産ではなく、借金8千円(現在の価値で1億6千万円ほど)だったとのことです。
薩摩人は無口な人が多く、自分が何を考えているかを口にすることがないと言われていました。
大久保利通や西郷隆盛なども無口だったようです。
これからの日本をどのように育成し、諸外国と渡り合っていくことができる国にしていくのか、
という長期ビジョンを描いていたにもかかわらず、それが共有できていなかったというのが
西郷隆盛を西南戦争に追いやり、自らも暗殺されてしまった原因の一つと言えるのかもしれま
せん。
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