安政5年8月8日(1858年9月14日)、孝明天皇は天皇の勅許を得ないまま日米修好通商
条約を結んだことに対する勅諚を水戸藩と幕府に下賜しました。
勅許なく日米修好通商条約を結んだことに対する叱責およびその経緯の説明を求める
ことと今後の攘夷推進体制を幕府と諸藩が協力して築き、実行することという命令です。
この勅諚は、正式な手続きである関白九条尚忠の裁可を経ずに水戸藩に直接下賜された
ことにより密勅という扱いになりました。また、幕府を通さず、天皇から一つの藩に
勅諚がだされたこともこれまでにないことでした。幕府を無視して天皇から直接水戸
藩に命令がくだされたということになります。
メンツを潰された幕府の権威回復のための政策が大老井伊直弼による安政の大獄となりま
す。幕府は天皇から水戸藩にくだった勅諚は天皇自身の意志によるものでなく、水戸藩と
それに賛同する一部の公家たちによる陰謀であるとしました。その陰謀に関わった人たちを
捕縛し、罰していったのが安政の大獄です。
そもそも日米修好通商条約締結にあたり、幕府がそれに反対する意見を押さえるために、天皇
に勅許を得ようとしたこと自体が幕府側の失敗だったのですが、開国反対側の戊午の密勅も同
様に関係者への根回し不足が問題を大きくしたといえます。
正式な勅諚下賜の手続きである関白を通すことで、天皇の幕府に対する要求を関白の段階で
骨抜きにされてしまうと考えたのであれば、水戸藩に勅諚を下賜する前に幕府のみに勅諚を
下賜し、その反応次第で水戸藩を巻き込むように持っていけば後になってその勅諚は陰謀に
よるものだなどといわれることもなかったと思います。
開国、攘夷の方針設定の利害関係者はそれぞれ誰と誰で、誰に何を承知させるためには、ど
のようなステップを経ていくべきか、というシナリオ設計が双方ともに不十分だったという
ことです。
その時、その時の勢いや流れで動くことも必要な場合もあるかもしれませんが、やはり、動く
前には、それなりの行動と結果のシミュレーションをし、その中から最適なシナリオを選択し
て実行に移していくというプロセスが重要となってくると思います。それは、会社の方針に関
する幹部陣との調整でも顧客に対する提案でも1回、1回の顧客訪問の場合でも当てはまること
だと思います。
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