フォロワーをつくることの重要性

慶応2年12月5日(1866年1月10日)、徳川慶喜が将軍宣下を受け、第十五代将軍に就任し

ました。徳川幕府最後の将軍です。慶喜さんは将軍になることを固辞し続けていました。

外国からは開港、通商を迫られ、巷では攘夷浪士が暴れまわり、長州藩や薩摩藩は討幕に

舵を切ろうとしているような状況で将軍を引き受けるのは火中の栗を拾うようなものです。

 

しかし、慶喜さんには自分以外に適任者がいない、ということも分かっていましたし、こ

れからの日本のあり方について自分なりの考え方も持っていたのだと思います。だからこ

そ、将軍就任を皆から望まれた結果、引き受けたという形になるまで断り続けたのでしょ

う。

 

将軍就任後は、フランスの協力を得ながら、財政再建、軍隊の近代化等により幕府の権威

復活を目論見ました。慶喜さん自らが政権を朝廷に返上するという大政奉還においても、

その真意は自分が新しい政権体制の中でも力を発揮できるようにという思惑を持ってのこ

とでした。

 

慶喜さんは、倒壊寸前の徳川幕府を背負い、何とかその勢威を取り戻そうとしたのだと思

います。しかし、その取り組みは組織を引っ張ってのものというよりも一人で考え、一人

で指示を出しているというような印象を持ちます。

 

将軍ですから徳川幕府のトップであり、リーダーであります。これから徳川幕府、日本を

どうしていくのかを考え、家臣たちをそこに導きながら行動していくのがリーダーシップ

を発揮するということになるのですが、慶喜さんの言動を見ていきますと、彼についてい

こうとするフォロワーの姿が見えてきません。

 

リーダーシップはそれを発揮しようとする人が勝手に考え、行動すれば良いというもので

はなく、それに賛同し、フォローしてくれる人たちをいかに作るかにも考慮する必要があ

ります。

 

徳川慶喜が聡明で行動力があり、家康の再来である、と家臣からは期待され、討幕を目論

む雄藩からは恐れられていたにも関わらず、結果としての評価がそれほどでもない理由は、

リーダーシップの発揮の仕方の問題が原因の一つなのではないかと感じます。

 

一人で何万という家臣に対峙するのは難しいと思います。だからこそ、自分一人で突っ走る

のではなく、自分の考えを理解し、補佐してくれるような右腕が必要となるのだと思います。

 

組織をマネジメントする立場の人は、自分が何を目指し、皆をどのように引っ張っていくか

を考えることも重要ですが、自分の右腕となり代行、代弁してくれるような人材の探索、登

用、育成も重要だと思います。フォロワーあってのリーダーシップの発揮なのですから。