元治元年8月14日(1864年9月14日)、長州藩と英米仏蘭との間で下関戦争の講和が成
立しました。交渉役を任された高杉晋作は、敗者の立場であるにもかかわらず堂々と
した態度で外国人たちとやり合いました。彼らは馬関海峡の外国船の通航の自由や、
薪炭の供与、賠償金の支払いを要求してきました。その他にも彦島の租借も要求して
きましたが、それだけは断固として認めませんでした。もし、それを認めていたらそ
こから日本の植民地化が進んでいたかもしれません。そのことを当時の優秀な志士と
いわれる人たちはよく理解していたようです。
その当時の多くの武士がそうであったように高杉晋作も当初は攘夷派でした。とにか
く外国人を国内から排除しようという考えです。その攘夷思想により下関戦争は始ま
りました。
ところが、高杉晋作は後に開国派となります。開国派の人たちは、外国勢と戦うため
には、まずは日本自体が強くならなければならない、そのためには、外国と積極的に
貿易をおこない、金を稼ぎ、それにより技術力を高め、軍備を強化していく必要があ
ると考えていました。その考え方は攘夷派と対立するものでした。
高杉晋作を開国派にしたのは、上海に渡航した折に見た外国人たちの進んだ技術力と彼
らにいいようにされていた中国人たちの状態でした。このままでは日本もいつか中国(清)
と同じようになるのではないかという危機感です。
問題とは、あるべき姿と現状のギャップである、といわれています。問題意識が低いと
いうことは、あるべき姿が描けていない(理解していない)か現状を正しく把握してい
ないか、もしくはその両方を理解していないということになります。
問題意識が低く、言われたことしかしない社員に向かって、「意識を変えなければダメ
だ。」と言っても何も改善されません。なぜなら問題意識の低さは意識の問題ではなく、
あるべき姿と現状についての正しい捉え方ができていないというのが原因だからです。
では、その正しい捉え方をさせるためには、どうすれば良いかといいますとそれらに関す
る情報を必要なだけ集めて理解させるということになります。つまり、問題意識が低いと
いう状態は、それに必要な情報収集ができていない状態であるということです。
高杉晋作が攘夷だけでは日本は救えないと考えるようになったのは、それまで知らなかっ
た外国勢の本当の姿とアジア人との歴然とした差を知ったことによります。上海で実態を
見て、自分に不足していた情報を収集した結果、問題の捉え方が変わったということです。
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